「棲み分け」は〝思いやり〟があるから成立するもの
あちらこちらで「棲み分け」がすすんでいますね^^
「棲み分け」は「共存」の代名詞みたいなもので、自分のテリトリーと相手のテリトリーが違うことを良しとしながら同じ環境を共に生きるという考え方です。
みんな同じであることを良しとした世界で、上下のピラミッドを軸とするしかなかった時代から。
みんな違っていていいことを良しとした世界で、それぞれの個の質を軸として循環を響かせあう時代へ。
それぞれが、自分の人生を循環させやすくなる、とても楽しみな流れがきてるなぁと思ってます^^
ですが、ここ数年で増えたのも、この「棲み分け」に対する不安によって起きたご相談でもあるんですよね。
得に多いのが、〝今のうちに仲間をつくっておかないと生き残れないよ〟と言われて何かのコミュニティに入り、そこでの人間関係に悩まされる案件と。〝精神レベルのマウント〟や〝コミュニティー同士のマウント〟みたいなことが起こり、家族や知人との関係性がこじれて、縁をきった、きられたの揉め事に発展しているなどのご相談です。
これは、みんな同じでなければいけない、同じじゃないものは排除するという、分断であり、棲み分けではありません。もっというなら、棲み分けを完璧にしようとしすぎた結果なんだと思うんですが。それだと、棲み分けではなく、囲い込みになり、共存とはかけ離れたものになってしまいます。
〝つながり〟そのものを象徴するはずの〝仲間〟や〝精神性〟にまつわることで分断が起こっている時点で本当に不思議な話ですが。
生活様式のほぼ等しい異種の生物群が、生活空間や生活時間・時期を分け、競争を回避しながら共存する現象。 ヤマメが下流に、イワナが上流にすむ例など。 ー デジタル大辞泉 「棲み分け」の意味・読み・例文・類語 ーより引用 |
↑というような説明もあるように。
そもそも、「棲み分け」って、同じ世界にいるけれど、感じ方の違うもの同士がぶつかるのを避けつつ共存するための智恵です。
これが、争いにならないために必要なのは、正しさの押し付け合いではなくお互いの存在に対する配慮です。
そして、その配慮の姿勢に必要なのは、「思いやりのあるコミュニケーション」と、積み重ねてきた「自分軸」への信頼を土台にして、〝維持する自分〟と〝リニューアルする自分〟の両方のバランスを確認しながら進んでいく柔軟な意識です。
これが抜け落ちた状態で、「棲み分け」という名だけに踊らされてしまうと、囲い込まれていることや、誰かを排除していることに気づかなくなり、棲み分けでなされるはずの共存は成立しなくなります。
ちなみに、本当に共存に向けて歩んでいる時って、距離はおいても分断は起きません。お互いが自分のちょうどいい場所に移動しただけだということが腑に落ちているので、あえて拒絶や排除の言動を突きつけたり、自分がその場を離れることに必要以上に怯えたりもしません。
なので、もし、共存であるはずの棲み分けと言われながらも、背後に他者に対する分断の気を感じた時は、自分がどんな場所にいたいかを考えて、ちょうどいい距離までそっと移動し続けて、あなたの棲み分けを成すためのことに取り組んでいけばいいと思います。
いろんな現象が加速する中で、心身が追いつかなくなることもあるかと思いますが。それも流れなので。
どこに自分の順応の足場を合わせていきたいか。
どんなことに心地良さを感じるのか。
どんな自分でいたいのか。
自分の足で一歩一歩確認して整理しながら進んだ先に、「私の居場所」という「棲み分け」がちょうどよく出来上がっていって。気づいた時には、共存の循環の中にいられる喜びに気づいているんだと思います。
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