自分の意思ではどうにもならないことを知って、どうにかできることに取り組む
子どもの時につくられたマイルールを土台に、今の「わたし」の「正解」がつくられているわけですが。
そもそも、子ども時代の土台って、どこからなんだろうかっていうお話です。
結論から言うと。「わたし」にとっての子ども時代の土台って、宇宙の仕組みありきなので。〝誰が〟とか。〝誰のせいで〟とかがありません。だから、目の前の正解はただの結果ですし。ただの結果であれば、その因なるものに気づき、書き換えていくだけなので。そもそも、目の前の現象自体に善悪自体がないという感覚です。(←こちらについては「宿命」の講座でもお話しさせていただいています。)
宇宙っていうと果てしなすぎて掴みにくくなるかと思うので。もう少しざっくりいうなら、先祖や前世など、自分の意思ではどうにもならないところからすでに始まっているというような感じですかね。
そうなった時って、あなたがあの時あーしたからこの子はこうなったとか。私のせいであの人がこうなったとか。全く無意味な話になってきます。どこまで遡っても遡っても、「誰が」なんて見つけられない世界の中で、「悪い誰か」という責任の矛先を探そうとするくらいなら、今、自分に確実に手渡されている現実の何に気づけばいいのかに、全て一つで共に取り組んで、完了させていった方がだいぶ現実的なんじゃないかと思います。
でも、あえて、この「悪い誰か」を作り出さなければ生きられない時期があって。
それが、自分を守るために必要な体験や肉体がまだ乏しい〝子ども〟と呼ばれる時期です。
置かれた環境で生き延びるために、自分を守るために必要な「悪い誰か」を作り出すことで、鎧や盾をまとう。「悪い誰か」がいる世界を作り出すことって、実は、免疫を創造するためにも大事な体験なんですよね。
なので、作られたことが悪いのではなくて、その鎧や盾のあり方を作り替えなければいけない時にそれができないことが、苦しみや生きずらさを長引かせ、自分の人生を歩くことができなくなる状態が問題になっているだけ。
なんなんら、その鎧と盾のあり方をリニューアルしていくために、わざわざ作るための体験に導かれ、完了に向かっていくのが人生なので。幼少期の傷って、その人が自分らしさを築いて宝に変えていくための道筋を作っておくためにも、あってなんぼだなと思っています。
だから、傷つくことを恐れ、傷つけられたことを憎しみ、傷つけたことに罪悪感をまとって、鑑賞用としておいておくんじゃなくて。その傷をどう癒していくか。「悪い誰か」なんてそもそもないなかった。そこに気づいて循環させていくことが、傷が持たされ、傷が起こり、傷を見せられる本質です。
それがわかれば、誰が傷をつけたのか探しより。見つけた傷をリニューアルしていくために必要なプロセスに取り組めばいいことが腑に落ちるので。幼少期の傷や潜在意識の傷に取り憑かれずにすみます。
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