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正解と最善は違うということがわかっているにも関わらず。やはり、実際に目の前で何かが起きると「聞いてない!」と言いたくなる時があります。

先日、家の空間がなんか違う感じが続いていたので、場の崩れに繋がっていたあれこれを繋ぎ直したところ、幸福感とリラックスという循環に通され、安堵したんですが。息子が帰ってきたと同時に、大げんかが勃発。

こんなことで怒りのスイッチが入ると思っていなかった私と、こんなことでキレられると思っていなかった息子。何がなんだかわからないんですけど、感情の吹き出しが止まらないわけです。私からすると、さっき幸福とリラックスの循環に整えたはずの空間の中で、激しい感情の吹き出しあいが起こっているわけなので、なんで?幸福の空間にシフトしたんじゃないの?ってなるわけです。

でもですね、よく考えてみたら、幸福って何を持っての幸福かってことなんですよね。私の中にあった幸福の認識は、〝争いがなく穏やかで平和な時間が流れている〟っていうことを「正解」としていたので、違うじゃないか!ってことになったわけなんですが。そもそも、「最善」とされた幸福に至るためのプロセスはちゃんと動いていて、必要な体験が起きたってことだったんですよね。

最近なぜか息子の言動をみるたびにイラっとして、表情にも出る状態が続いていたんですが、その原因が自分でもなかなか掴めず。それが続いていたことで、家の空気も悪くなっていたわけで。

その停滞していた循環が動き出し、吹き出したことで、何に気づけばよかったのかがわかり、お互いの気持ちを確認しあうことができるに至り。その後は、ものすごくいい空気になりました。

その時に気づくわけです。あっ、幸せに至る循環の中にいただけだったんだなって。私の正解とするプロセスではなかっただけで、それぞれの「幸せ」に着地するための最善の循環は、ちゃんと受け取っていたなと。

循環って、自分の都合のいいように流れをコントロールすることじゃなくて、きた流れを受け取り、体験して、完了させていくプロセスに取り組むことそのものなので。停滞して絡まっていたものが動き出せるようにすると、それぞれの循環にふさわしい出来事が動かされるのは必然ですよね。それがわかっているかわかっていないかで、人生の波の受け止め方が変わり、たどり着く場所が変わっていきます。

その意識を持っているかどうかで、波の乗り方、委ね方、方向性の定まり方が決まり、目の前で起こっている現実への捉え方が変わっていくので。どこに向かって体験しているのかということさえ見失わなければ、必ずどっかには着地できます。

 

 

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