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個顔屋という場所は、見える見えない全てが「つながって」いるという現実を「顔」という場所を通して見える化することで、訪れた人達が、自らの人生を「自分ごと」にして生きる喜びを結ぶためにある場所です。

なぜそんな場所をつくりたいと思ったのか。

幼少期から個顔屋の今に至るまでの歴史を、より多くの方と共有できたらと思い。
私がこのサロンをつくろうと思ったきっかけや想いをかきました。

體ほねの癒し個顔屋ファッシアの歴史に興味のある方はどうぞお読みください。

 

【幼少期のトラウマが繋いだ「触れる世界」】


物心がついた頃から、周囲から不意に流れ込んでくる違和感に体調を崩すような日常を送っていたことで、常に自分の体のどこかに痛みや苦しみがあることが当たり前だと諦めているようなところがありました。

思春期になると、その違和感はさらに過敏になり。目に映る相手の表情と、流れ込んでくる相手の感情との不一致への混乱で、誰かと関わりを持つこと自体がしんどくなり。気を抜くと、自分が自分でなくなるような感覚をどうにかしようと、1人でいる空間を確保したり、自分で自分の肉体を傷つけ、その痛みを自分だと確認することで保つようになりました。

そうやって、なんとか社会人と言われる時期に入った頃。消化器不全、パニック障害、嘔吐、息ができないほどの生理痛、うつ・・・と、今までフタをしてきたものが一気に警報を鳴らすかのように心身の限界を超え、部屋から出られなくなりました。

肉体は生きているはずなのに動かない。どこからが死で、どこからが生なのかがわからない。どこからが自分でどこからが他者のエネルギーなのかがわからない。誰かに共有してもらいたくて話ても病気と言う名がつけらるだけで状況は変わらず。

確かにある感覚を否定され続けるうちに、私の見ている世界が間違っていて、私の見ている世界を表現すると、この世界では生きていけないんだという認識だけが自分の居場所を守るための唯一の方法となっていき。薬で今を誤魔化しながら、凌ぐだけの日々が続いていました。

そんなトンネルにいるような時間に、風が通った感覚が起きたのは、たまたま誘われて参加した保育現場でのヘルプで子ども達に「触れた」時でした。目の前の相手の「そのまま」が流れ込んでくる心地よさと、自分の中にある「そのまま」を使って繋がれる喜びが巡り、私が私でいることにOKを出された感覚になったんですよね。

倒れる前は保育士をしていたので、子ども達に沢山触れてきたはずなのに、何が違うのかと考えた時。

先生という肩書きを持つ大人の皮をかぶらなければいけなかったこと。そして、大人の中で交わされる「音」の不一致への恐怖から自分の身を守るために、「そのまま」でつながりあう感覚自体を閉ざしてきたんだと感じ。

閉ざし続けてきたつながりの象徴でもある「触れる」世界のあり方に強く惹かれていくようになりました。

触れる世界の極み「骨」の医学との出会い

 

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